たこやきの魅力は、あの形かな?それとも蛸?
大阪の人達に、愛されつづけてきたこのまんまるい食べ物は、決して主役になれない。
「今夜はお好み焼きよ。」
モダン焼き、ミックス焼き、スペシャルミックス、そばオムレツなんてお好み焼きならいくらでも豪華なメイン料理になるけれど、たこ焼きは、そうはいかない。しかし、大人も、若者も、子どもも、女性も男性も関係なくみんなに食されてきたこのたこ焼きのことをすこし考えてみたいと思います。
明石で生まれた明石焼についても同じことが言えるけれど、少し違うのは、明石焼きはテーブルに座り、熱いだしに浸して、お箸で食べるところでしょう。
たこやきは、焼き置きができない、いつ来るかわからない客のために、常に鉄板を暖め、焼きつづけなけれなならない。このあやうさ、焼く人にとっては、こんなに大変なことはないでしょう。生地を鉄板に流し込んだら、真ん丸く焼き上げるため、たえず手を動かし続けるのです。
こんなたこやきと明石焼のことについてのミニ知識をおとどけします。
たこやきのルーツ1.たこやきの前身“ラジオ焼” 2.大阪の“たこ”やき誕生 では、たこやきに「たこ」を入れるヒントになった明石焼はどのようにして作られるようになったのでしょう。 明石焼のルーツ諸説がありますが、明石では、明治から昭和初期にかけてサンゴの模造品である「明石玉」が盛んにつくられていました。材料には卵の註gが使用されており、余った黄身とたくさん捕れていた蛸、そして、明石玉を作る丸く窪んだ鉄板を活用して作るようになったという説が有力なようです。このころから明石では“玉子焼”と呼ばれてきました。今でも地域によっては、そう呼ばれています。明石焼を熱いだしに浸して食べるようになったのは、なぜ? あつあつの明石焼を食べやすくするために、いつからか冷たいおだしに浸して食べるようになりました。現在、一般的に通用している熱いおすましのようなおだしは、昭和28年頃、元町で明石焼屋を始めた人が、女性や子どものおやつと考えられていた明石焼を、大人の食べる酒の肴になるように工夫したのがきっかけのようです。それは、刻んだ三つ葉をうかべて香りをよくした関西風の淡泊な味わいの熱いおだしだったそうです。 参考文献 熊谷真菜著『たこやき』(講談社)
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“大阪の家庭には一家に一台のたこやき器がある”という話は大袈裟にしても、みなさん一回くらいは自分で焼いて食べたことがあるのではないでしょうか。 私は、“たこやき”となると思い出すのはやっぱり生徒達のこと。我が家に遊びに来る子ども達には必ず昼食は“たこやき”。買い物から準備、かたづけまで、すべて自分ですることノしていました。28年間の教師生活の間に何人の子ども達が我が家で「たこやきパーティー」をやったでしょうか。 買い物しながら 「蛸やろ、粉やろ、玉子に……」 「紅しょうが入れる?」 「桜えびもいる?」 「そんなん入れるん?」 「蛸高いから、うちのはチクワやで?」 焼きながら 「焦げてるんちがう?」 「ねえ、ねえ、マラソンしんどかったけど、おもしろかったネ。」 「なんで掃除せなあかんの?先生。」 「ねえ、あの子どう思う?」 「昨日な、音楽の先生に……言われてん。」 子ども達の話題はどんどんひろがっていきます。 竹ぐしをそれぞれ持ってくるくる“たこやき”をまわしながら頭を鉄板の上に集めて、私もいっしょに我が家の子ども達もいっしょに話ははずむのです。たえず手を動かし話に花が咲く、そのうちまんまるい「たこやき」ができあがり。こんな光景が私にはとても大切な時間であり、とても大切なコミュニケーションだったのです。 |
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今、仙台で頑張っている宮川さんは、以前私と机を並べて仕事をしていた職場の同僚でした。結婚して仙台の土地で暮らすようになり、やはり、“大阪たこやき”への思いは強かったようです。仙台に住む“なにわのお母ちゃん”のつながりにたこやきが一役かったようで私は、とてもうれしく思います。 作りやすくて、食べやすい、コストも低いし、おいしい、形もまんまる角がない、わいわい集まってつまみながら、会話がはずむ。 そんな、たこやきが私は、いいなあーと改めて感じました。 |
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