茨木市野外青少年野外活動センター

 同センターには、キャンプカウンセラーとシルバーアドバイザーがいます。それぞれの活躍について紹介します。

キャンプカウンセラー(現役大学生)
地図 真夏だというのに、車を降りたとたんにひんやりと山の冷気を感じる。すばらしい赤松の林の中に目指す“星と星座の第3キャンプ場”があった。
 市内の小学6年生108名による、3泊4日のジュニアリーダー研修会が始まっていた。早速見学。子供会リーダーを養成する講座『自分で考えて、自分で行動し、それを振り返ってみる。』がテーマ。小学生10〜11人にカウンZラーが1名ついて、リードし一緒に行動する。
 大阪中心に大学生ばかり83名いる。みんないきいきしている。小学生達も研修が始まったばかりなのに、役割を分担させられて、質問にもハキハキと大きな声で答えている。目が輝いている。みんなやる気一杯。
「何処から来たの?」
「下穂積!上中条!」
「今夜の食事は何作るの?」
「ぶた丼!、肉じゃが!、カレー!」
赤松林の道を辿って行くと、高床式の大きなテント、午後4時半、林の中でもう薄暗い、すでに寝床づくりが始まっている。
「早いんだね?」
「早くしておかないと日が暮れるとなんにも見えないから。」
覗いてみたがほんとに灯りは何もない。
今時の子に、夜は真っ暗なんだと体感させるのも指導のテーマ。ひだまり、ピー吉、ミラクルがカウンセラー。ジャッジ、とんこ、老子、ロナウドが小学生。ここでは先生とは呼ばずニックネームで呼び合う。コミュニケーションが上手くいくこつか?女子小学生に聞いた。
「ひだまりさんみたいになりたい?」2・3人がこっくりうなずいた。ひだまり先生に聞いた。
「なんでカウンセラーになったの?」
「この子達のようにここで何度か研修を受けたんです。毎日が楽しいです。」

イラスト

シルバーアドバイザー(大阪府シルバーアドバイザー講座を終了された方)
シルバーアドバイザー  10月20日キャンプフェスティバルの日に再び訪問した。紅葉にはまだ早いが、落ち葉を踏む音が気持ちよい。あいにくの曇り空で『伝統の玩具つくり』は室内で行われていた。ボランティアである7人のシルバーアドバイザーが子どもにおもちゃ作りを教えておられた。82歳の林寿和さん以下皆さんとても元気で明るく楽しそう。『ブンブンゴマ』『ストロー竹とんぼ』『風車』などが、すぐ作り始められるよう、身近な材料を使って準備してある。子供たちが次々やってきてつくり、完成するとキャンプカウンセラーと飛ばしあいっこ、まわしあいっこをして遊ぶ。付き添いのお父さんお母さんも交えて3世代(4世代かな)の輪ができていた。


茨木の歴史
白井河原合戦あと(中河原町)

 藤原氏などの貴族や神社・寺院が荘園を持って、農民を支配する古代から、武士が政権を担当する中世になると、京・大坂に近い茨木は戦にまきこまれた。
 茨木氏・安威氏・三宅氏・中川氏などの国人【こくじん】と呼ばれる土豪の集団が起こって争うが、農民は、自分たちの生活の場を管理・運営するのを妨げる領主には、武器を取って追放するような状況になる。
 応仁の乱、一向一揆などの混乱の中で、茨木に住む人たちの生活を守ってくれる領主を選びながら、茨木は城下町から在郷町へと発展していく。

白井河原合戦あと(中河原町)
奈良時代 平安時代 鎌倉時代 室町時代 安土桃山時代 江戸時代 明治・大正・昭和
(古代) (中世) (近世) (現代)

【茨木各地の土豪達は、新しい時代に向けて活動を始めた】
 宿久庄にいた御家人宿久六郎【すくろくろう】や、泉原荘の泉原将監【いずはらしょうげん】、三宅城の三宅出羽守国村【みやけでわのかみくにむら】など国人と呼ばれる土豪たちが、荘園を持っていた貴族・社寺に変わって、土地の支配権を持つようになっていった。

【茨木氏が16世紀半ば頃から茨木城主となるが、織田信長が近畿を押さえて、中川清秀が茨木城の主となる】
 これらの土豪のなかから茨木氏の祖茨木伊賀守長隆【いばらきいがのかみながたか】は、室町幕府管領の細川晴元【ほそかわはるもと】を支えた実力者として茨木城主をつとめた。
 1500年代後半の茨木城主茨木佐渡守重朝【いばらきさどのかみしげとも】は、茨木氏最後の武将。芥川城主和田惟政【わだこれまさ】と提携して当地に覇をとなえていたが、白井河原の合戦(1571)で、織田信長方荒木村重【あらきむらしげ】・中川清秀【なかがわきよひで】に負けて没落。
 足利氏に変わって、織田信長が天下を掌握し、後継者豊臣秀吉が大坂城を築いて戦国時代は終わりを告げた。
 中川清秀【なかがわきよひで】は、中河原町の出身とも言われ、豊臣秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳【しずがたけ】で戦死し、梅林寺に菩提が弔われている。

【茨木は、豊臣家・徳川家の直轄地となり、江戸時代始めに茨木城はなくなった】
 高山右近【たかやまうこん】・小西行長【こにしゆきなが】と並んで、豊臣秀吉が信頼したキリシタン武将に、安威五左衛門了佐【あいござえもんのりすけ】がいる。高山右近の秘書官で、右近や行長ほど今は知ら黷トいないが当時は有名な人物であった。中川氏が播州三木に移った後、茨木城主になった。
 明治時代の文豪坪内逍遙【つぼうちしょうよう】の「桐一葉【きりひとは】」で知られる豊臣家重臣片桐且元【かたぎりかつもと】が城主をつとめたのち、徳川幕府は1615年、「一国一城の令」を出して全国400の城を廃止する。
茨木城はこのときになくなって田畑に変わった。

【茨木は、近郊の村々で生産される商品の加工・集散の中心となる在郷町に変わっていった】


茨木城の矢倉門を模したもの

参考資料
 東實文男「茨木市史雑考」(1988)
 茨木市「わがまち茨木−人物編」(2002)
 茨木市「わがまち茨木−城郭編」(1987)
 茨木市「茨木の歴史」(2002)

茨木城の矢倉門を模したもの
(茨木小学校正門横)


前の画面に戻る