いばらき再再発見
 文化の香り高い茨木市は“有形無形の文化財の宝庫”ではないだろうかと考えた「まなびどり」編集ボランティアは、祭事・街道・風習・史跡など「知る人ぞ知る茨木の文化」を発掘し、紹介します。日頃気づかない所に嬉しい発見があるかもしれませんよ。 かね

1.東奈良遺跡
 銅鐸【どうたく】の鋳型【いがた】が出土して全国に知られた東奈良遺跡は、北は奈良町、南は沢良宜【さわらぎ】西、東は桜通り、西は大正川、南北1.4km、東西1kmの範囲に広がる遺跡で、今から約2400年前の弥生時代のもの。環濠集落【かんごうしゅうらく】と呼ばれる大きなムラとして発展し、金属を鋳造【ちゅうぞう】する技術者集団が居た場所だったようである。東奈良の文化財資料館には、東奈良遺跡だけでなく、茨木の先人がのこした文化財が展示され、茨木の歴史を学ぶことができる。1階の展示室には、市内の地形の模型がある。北から南に向かってなだらかな地形になっており、大きな川が3本あって水利がよいことなどから、茨木は、人が生活しやすい環境であることがわかる。また、茨木には縄文遺跡もあって、1万年以上昔から人が活動していたようだ。

2.黒井の清水と竹管【ちくかん】水道
黒井イラスト 茨木は名水のまちと言われ、昔から、お酒造り、茶の湯が盛んだった。茨木神社にある“黒井の清水”ヘその象徴で、茨木神社の岡市宮司のお話によると、「昭和の初期まで、元町・片桐町・本町・上泉町など旧茨木市街地には、竹管を利用した簡易水道があった」そうである。茨木川の伏流水を水源にした元井戸(その1つが“黒井の清水”)から各家庭に配水していた。江戸時代後期の天保【てんぽう】年間(1830年ごろ)に敷設され、“井戸仲間”を作って、井戸の掃除や竹管の点検、修理などは共同で行っていたようだ。茨木の町屋地域には古くから自治組織が発達していたこと、庶民の偉大な知恵が歴史を支えていたことが読みとれる。さらに“黒井の清水”は豊臣秀吉がわざわざこの水を大坂城まで運ばせて、茶の湯を楽しんだという故事がある。その故事にちなんで、毎年10月に茨木神社では、“黒井の清水大茶会”が開かれている。

3.丸【まる】また
丸またイラスト 明治9年、現在のJR東海道線開通時に完成した田中町のトンネルで、今も市民に利用されている。ここで使われている赤レンガは、当時の日本の技術が未熟だったため非常に貴重なものであった。線路敷設工事には明治元年に取り壊された高槻城の石垣を石材として使っている。
 当時の茨木−大阪間の運賃は一番安いクラスで今のお金にして五千円もしたので庶民には高嶺の花だった。また茨木駅からの貨物の大半は灘に積み出す酒造米であった。

4.権内水路【ごんないすいろ】(深山【みやま】水路)
権内水路イラスト バス停「車作【くるまつくり】クラブ前」から急な坂道を登ること20分。山あいの田圃【たんぼ】を上下に二分するようにU字形水路がある。これが権内水路(深山水路)である。車作集落は高所にあるので、耕地の大半が畑作地であった。そのため村人は「なんとかして稲を作りたい」という願望を持った。この願いを実現させようと、江戸中期の元禄の終わり頃、庄屋畑中権兵衛(晩年権内)は私財を投げ出して約20年の歳月をかけて水路を完成させた。車作から1km上流の下音羽川から引いた水は、畑地を7.5ヘクタールの水田に変え、飲料水・非常用水・水車などに利用されて村人の生活を潤し、村を活気づけた。

5.麿崖仏【まがいぶつ】
権麿崖仏イラスト 上音羽の「倶楽部【くらぶ】前」バス停から、山脈【やまなみ】自然歩道を下る、音羽りんご園を横に見て少し行くと、農家の前に本宅と倉庫に挟まれるように、高さ3m弱、幅6mほどのこじんまりとした岩がある。街道とは反対側に約30体の地蔵菩薩等が丁寧に彫られていて、天正2年11月15日と刻まれている。現世が厳しいので、村人たちは来世の幸せを願ってお地蔵様を一心に彫ったものと思われる。
 また、妙見【みょうけん】街道の道しるべニなっていたとも考えられる。

地図
参考資料
 『茨木の史跡』(1998年、茨木市教育委員会)
 『わがまち茨木・水利編』(1991年、茨木市教育委員会)
 『ふるさと茨木探検ガイド』(2003年、ふるさと茨木連帯)

 

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