茨木市民の中からいきいき生活の達人を探し出し、紹介するコーナーです。話から見えてくるその豊かな人生に、きっとあなたも勇気づけられることでしょう。



名人肌で厳しかった父の教え、16年間にわたる海上自衛隊での事務官としての勤務、同じく16年間の国立民族学博物館での超多忙な業務、この三つが今の自分を築いてくれたという田主さんが語る川端康成への大いなる賛歌とは…。


版画に取り組むようになったきっかけは何でしょう。


私の家が印刷業を営んでいましたので、小さいときから家業を手伝っており、小学校5年生のころには徹夜をしたこともあります。そんなことから、自然に版画とのかかわりができ、創造の喜びを覚えていったようです。とにかく描くことが好きでしたね。


当初は抽象画やオブジェなどを手がけられていましたね。


私の出身は舞鶴市なんですが、小学校1年生のころ、駐留していたアメリカ兵が落としたと思われるシャープペンシルを橋の上で拾いました。断面が三角形でピカピカに光っていたんです。私には異文化の輝きのように見えて、強烈な印象でした。もう一つ印象的だったのは、21歳のときに京都で見たピカソの「泣く女」で、絵の中の女が持っているハンカチが三角形になっていたのです。この二つのことから三角形に魅せられ、それ以来約14年ほど、大小さまざまな三角形を題材にした抽象画を独学で描き、制作してきました。


抽象画で、国内外の展覧会に入選され注目されていたのに、なぜ具象画に変わっていかれたのですか。


昭和52年(1977年)、国立民族学博物館の創設時に展示業務に携わることになりました。そこに展示してある世界各地の民具や仮面などに心を動かされ、具象画の必然性を感じました。そして広報誌や新聞などに描いているうちに、いまの版画になりました。


日本で初のノーベル文学賞作家である川端康成の少年時代を題材にしようと、どうして思われたのですか。


昭和29年(1954年)に映画で「伊豆の踊子」を見て、感激しました。また昭和52年(1977年)ころ、宿久庄の辺りを車で通り、旧跡の前に初めて立ち、そのすばらしい自然環境を眺めて、心の中で何かが弾けたような気がしたんです。そのときはそれだけだったんですが、21年後の平成10年(1998年)に川端康成文学館をふらっと訪れたとき、川端少年が小学校6年生のときに書いた作文「箕面山」を読んで、その文面にくぎ付けになり、この人の少年時代を、そして宿久庄を版画で描きたいと強く思いました。


田主さんにとっての川端康成の魅力はどこですか。


ノーベル賞授賞式後の、スウェーデン・アカデミーでの講演「美しい日本の私−その序説」は川端文学を濃縮したものです。川端先生は17歳まで過ごした宿久庄の豊かな自然環境の中で、自然の音と光を鋭い感性で観察し身に付けて、それを後に小説にしました。いってみれば川端文学の基底は宿久庄の原風景なんです。ですから私は、少年時代の日記、ノート、手紙、短歌、俳句、初期の小説などに強く惹かれます。読み返すたびに新しい発見があります。


これから目指すもの、生涯かけて実現したい夢などは。また生涯学習について聞かせてください。


いつの日か、ノーベル賞の授賞式に合わせて、「川端康成〜宿久庄の世界」と題した版画の展覧会を開きたいと思っています。また、茨木市の風景・風物も描いてみたい。それから宿久庄の地に「文豪の郷」のようなものを造りたいですね。川端康成は茨木市民にとって大切な存在であり宝だと思いますよ。次代の人たちのためにもそのような場所があればいいなと思います。生涯学習については、なんといっても読書です。小さいときから年齢に応じて必要な本を読むこと、その積み重ねが大切だと思います。



ときめき、入魂、いやし、心底願うことは実現する、社会への恩返し、21世紀の子どものために…田主さん語録です。川端先生に見守られているという版画の制作に、また次代を担う若者の育成にかける熱意をひしひしと感じました。


版画集『川端少年の歩いた道』表紙

担当:崎間・野間



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