茨木市民の中からいきいき生活の達人を探し出し、紹介するコーナーです。話から見えてくるその豊かな人生に、きっとあなたも勇気づけられることでしょう。



「郡山宿本陣」、通称「椿の本陣」の17代当主梶さんを訪ねて、江戸時代から引き継がれた貴重な古文書などからうかがえる興味深い話の数々を語っていただきました。
梶さんは本陣の保護に努めた功績で、平成14年春に勲章を受けられました。


「椿の本陣」という珍しい名前の由来をお聞かせください。


この呼び方は通称で、「郡山宿本陣」がほんとうの名前です。多くの場合、本陣の位置、方位、屋号が通称になります。うちは当時庄屋や問屋役をしていて屋号がなかったのですが、正門(御成門)の脇に一抱えもある椿があって、見事な五色の花を咲かせていたことから、誰が言ったか「椿の本陣」と呼ばれるようになりました。「音に名高きご本陣の椿 折って一枝欲しゅうござる」と唄に残るくらいの椿の木です。今の椿は二代目で約70年になり、初代の木の挿し木をしてDNAを引き継いでいると私は思っていますが、花はなぜか三色しか咲きません。


当時の大名は本陣をどのように利用していたのですか。


元禄9年(1696年)から明治3年(1870年)の175年間に、休憩が1360回、宿泊が2040回、合計3400回利用されました。1年のうちでは参勤(国元から江戸へ向かう)時期の3月と、交代(江戸から国元へ帰る)時期の5月が多く、合わせて1700回にも及んでいました。利用の連絡は、予約制(宿泊時に次回の予約をする方法)と廻状(手紙をやり取りする方法)の二通りがありました。献立は上・中・下と分かれていて、中では夕食に鯛の焼き物、煮物の深鉢、鯛の汁物、和え物、みそ漬け、香の物などです。朝食と夕食を合わせての食費は今なら2万円ほどですね。


宿帳からわかるエピソードを紹介してください。


公道をさけてお忍びで来た大名や、親の死を知り明石から18里(1里は約4km)の道を1日で歩いた人、山崎宿で泊まるはずが雨のために急きょ変更してここに泊まったり、見舞いの途中で国元へ引き返したわがままな大名などいろいろなことが起っています。切腹事件も一件ありました。原因は奥方と奥女中のいさかいの詰め腹を切らされたためのようです。ある大名の廻状には「節約中であるので本陣の主人の出迎えは無用。旅籠の扱いは少々粗野であってよいから、一人150文以下でまかなうよう…」と記されてあり、懐具合が厳しかったことがわかりますね。浅野内匠頭は4回、茨木城主中川清秀の子孫の中川修理大夫も墓参りなどに利用していました。


本陣を守り次代へ引き継いでいくご苦労をお聞かせください。


享保3年(1718年)に類焼し、同6年(1721年)に諸大名の寄付などによって再建されました。今の本陣の建物はそのときに建てられたもので、寛政8年(1796年)と大正元年(1912年)には自力で修理されました。そのときは、寛政の修理から120年も経っていましたので、「夜になると座敷の天井から星が見えるぐらい建物が傷んでいた」と祖父が言っていました。私が昭和23年(1948年)にシベリヤから復員してきたときは、めぼしい物は売り払われ、売れない物が残っているような状態でした。最近では平成5年(1993年)から8年間にわたり、国の史跡としての保存修理が行われました。現在本陣があるのは皆さんのご支援の賜物です。大名最後の宿泊者である広島藩の浅野中納言長勲から「今後は商売替えをするように…」との助言を受けてまじめに農業に励んだこともこの本陣が今あることの一つだと思っています。父も私もその心を大切にして、贅沢心を戒めてきました。


梶さんにとって「生涯学習」とは何ですか。


現在多くの本陣がなくなって、草津本陣のほか、国の史跡としては数軒しかありません。私はこの本陣のことについて、いろいろ勉強をして、建物の保存だけでなく、付加価値を付けたいと念願しています。これからも地元の人との交流を深めようと、俳句会をもったり、お茶会もはじめたいと思っています。皆さんのご支援をおまちしています。



カメラを向けたとき、「散髪しといたらよかったなあ」とご自分の頭をさわられた様子がなんともほほえましく、81歳とは思えないつややかで福々しいお顔が印象的でした。


郡山宿本陣「御成門」

担当:阿曽 岩本 崎間



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