茨木市内をほぼ東西に走る西国街道は、高田町九番から西へ進み、郡山宿本陣(椿の本陣)の前を通って、西豊川町から箕面市小野原へと通じています。
まなびどり編集ボランティアは、茨木市内を通っている約5.5kmの西国街道を寄り道をしながら歩き、古墳や史跡などを訪ねました。
近鉄バス太田バス停から東へ歩きだしてすぐ左側に、こんもりと茂った森の墳丘が見える。これが太田茶臼山古墳(継体天皇陵)である。この古墳は五世紀頃の築造とされ、遙拝所の石碑には「継体天皇三島藍野陵【けいたいてんのうみしまあいのみささぎ】」と旧字体で書いてあり、継体天皇の御陵とされているが、疑義があるようだ。
この街道のスタート地点である高田町まで行き、Uターンして西へ進む。東太田四丁目の交差点を横断して、太田廃寺【おおだはいじ】跡を訪ねた。寺の礎石跡はなく、案内板があるだけだった。
坂をだらだらと下る途中に雲見坂と呼ばれる所がある。この近くにあった太田城の城主である太田太郎頼基【おおだたろうよりもと】が雲の動きを見て、天気や戦のやり方を判断したと言い伝えられている。かつては大阪平野を一望できたらしい。三差路に「左 京ふしみ道 右 ごん田 三しま江」と読める道標があった。この坂の上に大きな石があって、紫式部がこの石に腰をかけて、西の方を眺めたという言い伝えがある。
雲見坂を後に太田神社へ向かった。スギ木立の参道を抜けると、正面に拝殿、本殿があり、速素戔嗚尊【はやすさのおのみこと】など三神が祭られている。
太田一、二丁目に入ると右側に、エノキが植えられた小さな公園がある。ここが昔、豊臣秀吉が街道の距離を分かりやすくするために作らせたのが始まりとされる一里塚があった所という説もあるが定かではない。現在、古木の根元だけが残っていて、保存樹に指定されている。 安威川の太田橋を渡り、名神高速道路をくぐって十日市町へ入る。耳原との境界に大きな道標がある。耳原の茨木亀岡線を越えて阿為神社御旅所の鳥居前を通る。
幣久良山【てくらやま】の森を眺めながら西へ歩く。巨石古墳で知られている耳原古墳へ向かったが、入り口が分からず今回は残念ながら入ることを断念した。
耳原公園のすぐ近くに耳原方形墳(鼻摺【はなずり】古墳)がある。この古墳は東西南北の四方に濠をもつ方形の古墳で、六世紀から七世紀にかけて築造されたと考えられ、仁徳【りちゅう】、履中、反正【はんぜい】の三代天皇陵と伝えられるが、明確ではない。
小休止の後、しばらく歩くと街道に戻り、茨木川の幣久良橋に着く。このあたりが白井河原合戦跡で、元亀2年(1571年)、茨木重朝・和田惟政軍と荒木村重・中川清秀軍との合戦があったといわれている。「白井河原は名のみにして、唐紅の流れとなる」と、戦いの激しさが案内板に書いてあった。中河原町に入った亀岡街道との交差点には、東西南北各方面への距離を示す道標があり、ここは古代から人、物、文化の行き交う交通の要衝であった。茨木城主の中川清秀が生まれたともいわれる由緒地でもある。
下井町を抜け、国道171号を横断して宿川原町の石畳の道に入る。ここには茨木街道への分岐を示す道標がある。このあたりが郡山宿で、国の史跡に指定されている郡山宿本陣(椿の本陣)が往時の宿場の名残をとどめている。宿帳には、忠臣蔵で有名な赤穂城主・浅野内匠頭が宿泊した記録が残されている。