生涯学習センター きらめき
生涯学習センター きらめきで現在開催されている文化講座の中に、「カウンセリング入門」と「三島地域を中心として京都・大阪・神戸の歴史を学ぶ」という講座があります。これらの講座はいずれも興味ある内容になっています。
そこで担当の先生に、講座の内容にかかわる話を聞きました。
カウンセリング入門
私たちは、毎日の生活の中でさまざまな出来事に出合います。その出来事が不安や心配につながり、ストレスになってしまうケースがあります。 |
ストレスに脅かされている現代社会についてお話ください。
ある学校で聞いた話です。教室内で荒れてどうしようもない小学1年生の子どもに担任の先生が理由を尋ねると、「オレらは忙しい。ストレスがたまっている」との返事。大人の社会にあっても、仕事、家庭生活、病気や事故への不安などストレスの要因が増えています。どの年代にも共通しているのは、人間関係によるストレスです。現代社会では人間関係が希薄になり、人間関係を維持する力が弱まっています。よく「キレる」ということが言われますが、それは「人間関係が切れる」ということであり、相手の痛みや苦しみに共感できないことによって引き起こされるのです。
このようなストレス社会において、ストレスと向き合うにはどうしたらいいのでしょうか。
まず、自分の身の回りの出来事を事実として受けいれるということ。それに対して具体的にどうすればいいのかを考えます(対処の能力)。しかし、事実を受けいれることができない、あるいはできたとしても、対処のスキル(技術)がないという人もいます。
一つの考え方として、自分の生活の中において何らかのトラブルに出合ったら、「これは次の成長への大切な機会だ」ととらえてみてはいかがでしょうか。そのために小さい時からストレスを乗り越える力(特に欲求不満耐性)を養っておきたいですね。
カウンセラーの立場から相談者にはどのように接しておられますか。
これまでの生育歴において、発達の「課題」が残されている人がいます。また現在の社会的立場からストレスを受けている人もいます。共通しているのは「ありのままの自分」を受けいれていないということ。言い換えると「思いこみの自分」にしばられているのです。カウンセラーとしては、相談者が「ありのままの自分」に気づいてくれるように支援します。自分の中にある「乗り越えるべき課題」に気づくことによって、自分自身をコントロールする力も成長します。
ストレス社会を明るく生きていくためのヒントをいただきたいのですが・・・
「完璧主義」から脱却することです。完璧にできない自分をダメな人間と考える必要はありません。私はよく、「普通・適当・よい加減」ということを勧めています。普通とは、どんな場合にも臨機応変に対応できる発想の柔軟さを指しています。適当とは、まさに適している、当たっているという適切さ。よい加減とは、考え方のバランスがとれている状態のことです。
また、大事にしたいのは、人とのふれ合いです。愚痴を言うだけでもいいし、ある人と時間と空間を共有しているということだけでも心は満たされるものです。また一人ひとりが、ストレスへの対応策を複数持っているということが大切です。カウンセラーは、そのための選択肢を広げる支援をします。よりよく生きるために、また自分の再発見のためにカウンセラーを活用していただけたらうれしいですね。
三島地域を中心として京都・大阪・神戸の歴史を学ぶ
「三島地域を中心として京都・大阪・神戸の歴史を学ぶ」の講座を担当されているのは小林章先生です。今回は、三島地域、特に茨木市域の古代にかかわる話を聞きました。 |
茨木市域で人々が生活を始めたのは、いつ頃からだと考えられるのでしょうか。
出土した遺跡や遺物から考えて、およそ2万年ほど前からでしょうか。当時作られた石器が高槻市や吹田市、茨木市などで、富田礫層の土の台地から発見されているので、その台地周辺で人々が生活をしていたと思われます。この時期、海面は低下していて、日本列島は大陸と陸続きになっていたので、大陸から人や動物が移動してきました。その後、地球が温暖化し水面が上昇して河内平野あたりまで水が入り、茨木市域でも阪急茨木市駅から東側一帯にまで海岸線が及んでいたのでしょう。茨木市には、水に関係する地名がいくつか(真砂、沢良宜、島など)あります。
茨木市域における集落としては今のところ最も古いのは耳原遺跡です。その付近では縄文晩期の遺物が見つかっていて、人々は山の木の実を取って食べたり、シカやイノシシを追ったり、川では魚を取って食べていました。(紀元前3・4世紀〜紀元前後)
現在の茨木市の中央付近での生活が行われるようになったのはどうしてでしょうか。
茨木市を流れる川(佐保川、勝尾寺川、安威川など)から土砂が流れてきて堆積していきますが、その土砂には栄養分が多く含まれています。これがその後の稲作などにとっては好都合でした。人々は周辺にあるものを取って食べていたのですが、だんだんと自分たちの食べるものは自分たちで作るようになりました。始めは豆類・いも類などでしたが、やがて稲作をするようになりました。稲作はアジア大陸からその技術を持った人々が伝えたものだと思われます。稲作が盛んになると、人々は東奈良地域などの低地へと移ってきました。稲作のための水田耕作がされ、灌漑用のため池が作られるようになると、これらの土木工事にかかわる人々や農作業に従事する人々を統率するリーダーが出てきました。彼らがやがて支配者となり、その墓が古墳につながっていったのではないかと思われます。
この時期に関係する発見として東奈良遺跡が大きく取り上げられましたが、どのような遺跡なのでしょうか。
東奈良遺跡の発見は、茨木市の古代の歴史をひもとく多くのものを与えてくれました。中でも銅鐸の鋳型の発見は大きな話題を呼び、多くのことが明らかになりました。稲作の文化を持つ人々とともに、銅鐸などの銅製の品を作り出す高度な技術を持った人々が住んでいたのです。東奈良遺跡で発見された鋳型で作られたと思われる銅鐸が、遠くは香川県善通寺市で発見されていることから、当時の人々の交流が分かってきます。
こうしてみると、当時の茨木市域では人々が力を合わせて農耕を営み、灌漑などの高度な土木工事を担当する人々がいて、一方では銅を使って金属器を作る人々がいるという姿が浮かび上がってきます。
生涯学習として、茨木市やその周辺の歴史を学ぶことの楽しさを教えてください。
茨木市は古代だけではなく、全時代にかかわるものがそろっていて歴史的に豊かなところです。茨木市を通じて日本史を見ることもできます。歴史を知るにはまず現地へ行って調べてみる、つまり追体験をすることが非常に大切なことだと思います。
東奈良遺跡で発見された銅鐸の鋳型 | 茨木市内の主要弥生遺跡分布図 |
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