むかし、摂津の国水尾村に男の子が生まれた。生まれながらにして歯がはえ揃っており、生まれてすぐにヨチヨチ歩き出した。眼光鋭く後を向いて、母の顔を見てニタッと笑った。その恐ろしさのため母はショックで亡くなった。うわさはすぐに広まり、みんな薄気味悪くなって、誰も相手にしなくなった。ある夜、父は茨木村の九頭神の森近くにある髪結床屋の前に捨ててしまった。床屋の親方夫婦が拾い育てたがやがてもてあますようになり、そこで床屋の仕事を教え込むことにした。
 3年ばかり過ぎたある日、客を傷つけたことで床屋の親方にひどくしかられたことを思いうかべつつ土橋の上からしげしげと川面を見ると、水鏡に映った自分の顔はなんと鬼の相を呈していた。童子は驚き、そのまま店には戻らず丹波の山奥に入ってしまった。丹後に移り大江山に住む山賊の頭、酒呑童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になった。人々は童子らを鬼と呼んで恐れ、都は日暮れともなれば戸を閉じ街は百鬼夜行のかたちとなった。

(『わがまち茨木−民話・伝説編』より)

 羅城門で渡辺綱に片腕を切り取られた茨木童子が伯母の真柴に姿を変え、物忌みをしている綱のところに訪ねて来て腕を取り返すという歌舞伎『茨木』(河竹黙阿弥作)の話は、一般によく知られています。
 茨木童子は、地域によってさまざまな形で言い伝えられています。京都での茨木童子像は完全な悪役です。『百鬼夜行拾遺』の羅城門の鬼茨木童子は、疾風を巻き起こす恐ろしい鬼であり、葬り去られて当然の存在としています。これに対して摂津では、茨木童子は必ずしも忌み嫌われる鬼ではなく、『摂陽群談』では、心のやさしい模範的な人間のように描かれています。捨てた親を恨まず、報恩の念を述べ、病人を末期まで見とどけます。外面的容貌は鬼でも、内面的心情や行為は善良な人間です。
 前者の鬼は、外部からの侵入者であるとして、極悪さばかりが誇張されています。後者の茨木童子は人間社会からはじき出されながらも、心の内は人間的な温かさを持っています。これは、自己中心的で、敵対者には一面的評価しかできない社会と、自然と共生して多様な価値を認める社会との違いではないでしょうか。
 茨木童子が、北摂と丹波の間にある老坂山地を東へ東へと移るうちに鬼になっているのを知ったというのは福井村の昔話です。
 近辺には修験の霊地があり、竜王山は今もあちこちに修験行場の名残があります。こうした山岳修行での超自然力を得て、呪術力で人々に接するのが修験道です。これらの話から酒呑童子や茨木童子らの鬼は、修験者か修験者的なものとの説もあります。
 また、各地の鬼伝説や鉱山・金属加工の跡地などから、修験者と鉱山・金工が密接に結びついているとする説があります。茨木地域に鉱山・鉱脈があったという話はありませんが、東奈良には青銅器鋳造集団がいました。また、福井村は金属加工の地でした。これらにかかわる人々は、農業を営むなどの定着した人々とは異なり、鉄を求めて各地に移動することが多く、そのため異端者として排除され、鬼と呼ばれるようになったとも考えられます。
(『新修茨木市史』第10巻 別編民俗より)
茨木童子石像(中条図書館東側)