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各地に民話・伝説があるように、茨木にもいくつかの話が残されています。
 茨木市では、昔から語り伝えられている話や古典・古記録に残されていた茨木に関係する話を集めて、「わがまち茨木 民話・伝説編」に掲載しています。
 今回は、その中の2編を紹介します。

 


茨木街道支線とその周辺


 茨木街道支線は、本町で高槻街道と分かれて田中、耳原、安威を経て、桑原で妙見街道と合流する道です。  
 今回は7月中旬に、本町から出発しJR京都線、国道171号、名神高速道路など市内を東西に横断する幹線と交差しながら北進し、耳原、安威を経て長ケ橋までの約5.5Hを、周辺の史跡などに寄りながら歩きました。


本町〜三咲町

 7月14日、茨木神社に9時集合。朝の日差しの強さが日中の暑さを予感させる。茨木神社はちょうど祭りで、境内には屋台が立ち並び、町内会の白いはっぴ姿の親子連れと何度もすれ違う。     
 境内を通り過ぎて、商店街の生鮮魚菜店を北へ約50mの所に高槻街道との分起点がある。北東角の道標の一部が民家に塗り込められていて、見落としてしまいそうだ。さらに、約50m先の薬局を西に折れ、茨木小学校に復元された茨木城櫓門を正面に見ながら少し手前を北に折れ、JR京都線のガードをくぐる。このガードは、明治時代初期、京都〜大阪間に鉄道が開通した時にできたもので、レンガ造りで珍しく、「田中の丸また」と呼ばれている。周辺は、昔の町並みの面影を残しているが、鉄筋中層マンションなどもあり、そのアンバランスが面白い。
 田中町を北進していくと、茨木川の堤に突き当る。上った所に安威川・茨木川合流地点の石碑があった。
 約100mほど歩き田中大橋を渡り三咲町に入る。橋下の日陰でしばらく休憩をとり、水分補給をする。それにしても今日は暑い。



「田中の丸また」(中):安威川・茨木川合流の碑 (右)

三咲町〜耳原

  10時10分、国道171号との交差点を北進し、すぐに府道茨木亀岡線東側の脇道を北進する。物流倉庫や工場が続き、南耳原の住宅地を抜けてしばらく歩くと西国街道に突き当る。そこを西に折れて府道茨木亀岡線を渡りまっすぐ歩いていくと、阿為神社の御旅所に出合う。少し立ち寄ってみる。
 耳原古墳を目指して再び歩く。いったん、府道茨木亀岡線に戻り交差点を約100m北進すると研究所の入り口がある。ここで見学を申し入れ中に入る。古墳は広い敷地内の一角の、こんもりと茂った樹木の所にあった。
 『わがまち茨木 古墳編』によると石室は、長さ約6.97m・幅約1.68m・高さ約1.71mの羨道と、長さ約6.81m・幅約2.4m・高さ約3.3mの玄室からなる。玄室には2つの石棺が置かれてあり、羨道近くにある石棺は、家の形をしたくり抜いた石棺(家形刳抜式石棺)で、奥にある石棺は、家の形をした組合せ式の石棺(家形組合式石棺)である。暗い石室から出ると、樹木を渡る風が火照った体に実に心地よかった。


耳原〜安威

 11時10分、再び府道茨木亀岡線を北進する。目指すは、阿為神社、大念寺。府道を離れて安威の住宅地に入る。道は乗用車1台がやっと通れる程度の幅しかないが、町並みは途切れることがなく続いている。しっくいを使った民家や白壁の土蔵などが見られる。
 11時40分、阿為神社の鳥居をくぐり、古い樹木に覆われた参道を上っていく。新社殿は昨年落成したばかりで、まだ木の香りがする。中臣氏一族ゆかりの神社の境内で、大化の改新の頃に思いをはせてみるが、暑さで集中できない。 
 12時、釣鐘の音を聞きながら大念寺へ入り、黄金竹を見せてもらう。細い竹で高さは3m余りか。黄金竹の葉の先端が枯れるのは、この寺に縁が深い藤原鎌足の頭部を安威の墓から大和の多武峰に改葬したからだと語り伝えられているそうだ。
 大念寺の手前を東に折れて、長ケ橋の手前で府道茨木亀岡線に再び出た。突然激しい雨に出合い、安威のバス停の待合室で雨宿りをする。一雨の後の涼しさを感じながら12時35分、今回の行程を終わる。


大念寺の黄金竹
  市街地では、茨木神社祭礼の準備などに忙しい町内の人々の、慌ただしさやワクワク感がそのまま伝わってくるようでした。
 市街地から少し離れた安威地区では、昔は阿為神社周辺がにぎわっていたことがしのばれました。