茨木市生涯学習情報誌『まなびどり』は第30号を迎えました。
  そこで『まなびどり』編集ボランティアは、ライフワークとして鬼の研究をされている茨木市教育委員会大橋忠雄教育長に、茨木童子などの鬼について、各地の伝承やその背景にあるものなどを話していただきました。

 

 

 

 

 

 

 

  茨木市には、茨木童子にかかわる伝承があります。
  茨木市史によると、「茨木童子は水尾村に生まれたが、幼児期、茨木村に捨てられ近くの床屋に育てられた。床屋の手伝いをしているうちに、客の切り傷の血をなめ、その味を知ってから血をなめる習癖がつき、自分の異常に気づいた童子は小川にかかる橋の上から、水に映る自分の姿が鬼の形相であることを知り、人間社会での生活をあきらめ、大江山の酒呑童子の配下となった」とあります。新庄町には、茨木童子が小川に自分の姿を映して鬼であることを知った「茨木童子貌見橋」という石碑があり、大正の初年までは、たたりを恐れて埋めた櫛塚があったということです。中条図書館東側や高橋の交差点には、茨木童子のかわいい石像が立っています。
  兵庫県尼崎市、新潟県栃尾市にも茨木童子が登場する伝承が残っています。
  尼崎市の伝承(尼崎市史)では、「茨木村に捨てられた茨木童子は、拾われた酒呑童子の配下となった。あるとき父母が病気だと知って父母を見舞った。父母はねぎらったが一族は恐れおののき、童子はもう会うこともないでしょうと別れを告げた。父母は東寺に安住できるようにと、童子が生まれた土地を安東寺と名付けた」とあります。
  栃尾市の伝承では、「幼児の頃から悪行を好み、村民にうとまれ恐れられ、邸内の窟をすみかとしていた。寺に預けられ、長じてのち酒呑童子と共に古志郡太平山をすみかとして近辺を横行した。酒呑童子と茨木童子は力量に優劣はなかったが、酒呑童子は奇術に長けていたので茨木童子は酒呑童子に主従の約をとり、無頼の凶徒をつのって暴悪をほしいままにしたので、鬼賊と呼ばれて人々に恐れられた」と伝えています。
  尼崎市の伝承では、茨木童子は「異形」の子であり、「捨て童子」です。これは、茨木市の語りと同じであり、童子誕生を語る場合の基本的な要素となっています。
  一方、栃尾市の伝承では、茨木童子と酒呑童子がセットになって語られていますが、「捨て童子」ではなく、寺に預けられ育てられたという語りになっています。
  このように童子像は地域によって異なり、父母の恩に報いる善良で心やさしい人間的な童子像と恐れられ忌み嫌われる童子像とが存在し、また、育ち方も大きく異なっています。茨木童子伝承
  茨木市には、茨木童子にかかわる伝承があります。
  茨木市史によると、「茨木童子は水尾村に生まれたが、幼児期、茨木村に捨てられ近くの床屋に育てられた。床屋の手伝いをしているうちに、客の切り傷の血をなめ、その味を知ってから血をなめる習癖がつき、自分の異常に気づいた童子は小川にかかる橋の上から、水に映る自分の姿が鬼の形相であることを知り、人間社会での生活をあきらめ、大江山の酒呑童子の配下となった」とあります。新庄町には、茨木童子が小川に自分の姿を映して鬼であることを知った「茨木童子貌見橋」という石碑があり、大正の初年までは、たたりを恐れて埋めた櫛塚があったということです。中条図書館東側や高橋の交差点には、茨木童子のかわいい石像が立っています。
  兵庫県尼崎市、新潟県栃尾市にも茨木童子が登場する伝承が残っています。
  尼崎市の伝承(尼崎市史)では、「茨木村に捨てられた茨木童子は、拾われた酒呑童子の配下となった。あるとき父母が病気だと知って父母を見舞った。父母はねぎらったが一族は恐れおののき、童子はもう会うこともないでしょうと別れを告げた。父母は東寺に安住できるようにと、童子が生まれた土地を安東寺と名付けた」とあります。
  栃尾市の伝承では、「幼児の頃から悪行を好み、村民にうとまれ恐れられ、邸内の窟をすみかとしていた。寺に預けられ、長じてのち酒呑童子と共に古志郡太平山をすみかとして近辺を横行した。酒呑童子と茨木童子は力量に優劣はなかったが、酒呑童子は奇術に長けていたので茨木童子は酒呑童子に主従の約をとり、無頼の凶徒をつのって暴悪をほしいままにしたので、鬼賊と呼ばれて人々に恐れられた」と伝えています。
  尼崎市の伝承では、茨木童子は「異形」の子であり、「捨て童子」です。これは、茨木市の語りと同じであり、童子誕生を語る場合の基本的な要素となっています。
  一方、栃尾市の伝承では、茨木童子と酒呑童子がセットになって語られていますが、「捨て童子」ではなく、寺に預けられ育てられたという語りになっています。
  このように童子像は地域によって異なり、父母の恩に報いる善良で心やさしい人間的な童子像と恐れられ忌み嫌われる童子像とが存在し、また、育ち方も大きく異なっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 茨木童子が「鬼」と結びつくのは、誕生時の姿や行動に大きくかかわっています。歯や髪の毛が生えて生まれたり、生まれてまもなくはい出したりする子は鬼子として畏怖されました。武蔵坊弁慶は母の胎内に18か月、生まれた時は2・3歳児と同様に歯も髪も生えていたと「異常誕生譚」は伝えています。鬼子は長じて鬼になるものと信じられ、埋めて殺されるか、山中に捨てられるか、寺へ出されるかのいずれかだったそうです。茨木市史では、茨木童子は茨木村に捨てられたとあります。
  茨木童子が「捨て童子」であったことと貌見橋から川面に映る自分の姿が鬼の形相であったというくだりとは大きなかかわりを持っているようです。古来、川は此岸と彼岸、人間界と異界との境界線と考えられていました。童子は、川という境界で人間ではない鬼の姿の自分に気付くのです。童子はその境界線をまたいで人間界から異界へと移っていったと解釈できます。その川の上流には竜王山があるので、「捨て童子」である茨木童子と竜王山とのかかわりが感じられます。
  では、「童子」とはどういう存在なのでしょう。中世、大人になっても子どもの髪型のままで生活していた流浪の民や農民以外の非定住者などで、制度や慣習に規制されて童形のままで生涯を過ごす人が少なくありませんでした。中世前期までは、この世の者ならぬ霊力を持つ聖なる存在とされていましたが、その後の社会の変化の過程で、社会から排除される存在としてみられるようになったと思われます。ここに、「鬼子」と「童子」とのかかわりが見え隠れしています。

 

 鬼伝説が産鉄地に多いことは定説になっています。昔、鉄は国家を制するものと考えられており、鬼を追い求めていくと、その時代の政治、経済などと大きくかかわっていることに気づきます。つまり、鬼のイメージは、政治や経済、制度などその時代の社会システムによって大きく変化していくのです。
  酒呑童子がいた大江山も鉱脈などの地下資源に恵まれた山で、大江山の中腹にはタタラの跡がありました。タタラとは、大型のフイゴのことで、後世、鉄の炉のことをタタラと呼びました。
  茨木地域には鉱脈はありませんでしたが、東奈良には青銅器鋳造集団がいました。真砂は良質の砂鉄という意味があり、鉄が少しは採れたのではないかと推測されます。
  溝咋神社の祭神は、『古事記』ではホトタタライスズヒメで、産鉄用語のタタラという名が出てきます。ホトタタライスズヒメは神武天皇の后です。このことから茨木地域は、金属にかかわる地域で、権力者との結びつきがあったことがうかがえます。
  一方、地域の支配者層以外で金属にかかわる技術を持った人々は、一定の地に留まらずに鉄を求めて各地を移動しました。そのために、社会から異端者として疎外され、それが鬼という存在につながっていったのではないでしょうか。