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 茨木市には、北の山間部から南の平野地へ流れる川とその支流がいくつもあります。
 『まなびどり』編集ボランティアは、これらの川に沿って歩き、時々に移ろう川の趣や、その周辺の自然や史跡などを取材しました。
佐保川の清流

(源流付近から勝尾寺川との合流点まで)

 今回は、泉原の消防署北辰分署付近から佐保川に沿って南下し、幣久良橋(てくらばし)付近で勝尾寺川に合流するまでの約12kmを紹介します。
 秋の真っただ中、泉原の棚田や白井河原の周辺などをゆっくりと散策しました。

 10月14日。阪急茨木市駅バスターミナルから9時28分発の阪急バス忍頂寺行に乗車。休日の行楽日和のせいか、車内はリュックを背負った家族連れやグループで満員である。10時15分、千提寺口バス停で下車。
 上音羽方面へ少し行った消防署北辰分署前から多留見峠の方向を見る。その周辺に降った雨は勝尾寺川、音羽川、そして佐保川へと注ぐ。
 田畑の中を佐保川の流れに沿って南下する。川は草や木々、大きな石をぬうようにして清らかに流れ進んでいく。土手に目を向けると彼岸花が群生している。よく見ると、もう盛りを過ぎて花弁が欠けてはいるが、遠くから見るとやはり美しい。周辺の棚田は刈り入れも終わり、所々にわらを燃やす煙が秋空に上がっていた。 
 清溪公民館の裏側付近で、サツマイモのつるを切り取っている地元の人に出会った。昔と違い、今では料亭へも納められているらしい。

佐保川源流付近の風景
 しばらく歩いて、棚田のすぐそばを流れる佐保川に下りた。1mほどの川幅を小岩を踏み台にして渡る。所々で澄んだ水が石にぶつかり白いしぶきを上げている。ちょっとしたスリルで、童心に返ったような気分だ。
 道に戻り、10mほど東へ歩くと亀岡街道である。

棚田のそばを流れる佐保川
土手に咲く彼岸花


 11時10分、泉原バス停前を通る。バス停の隣が清溪駐在所で、茨木市内に三つある駐在所のうちの一つだ。交差点付近にキリシタン自然歩道の泉原側の起点を示す道標があった。佐保川は下泉原橋で西側から流れ込む泉原川と合流している。南条バス停のすぐ先のコンクリートのせきから澄んだ川面を見ると、小さい魚の群れが素早く泳ぎ回っていた。車で走行していては絶対に気付かない風景である。
 さらに南下を続けると、免山バス停近くに鉢伏自然歩道の起点の道標が、東側には河川美化運動の看板があった。「アドプト・リバー佐保川」と書かれていた。しばらく歩き庄之本バス停の手前で脇道に入る。道のそばの栗や柿の木には大きな実が付いていた。
 佐保川はいろいろな顔を見せてくれる。今、目の前を流れる姿は、大きな岩盤の下をえぐるような強さを感じさせる流れである。美しく見ごたえのある風景である。

 高座(たかくら)神社の前を通って見晴らしのいい高台に出る。刈り入れが済んだ田んぼが眼下に広がり、秋の高い空から日の光が降り注ぐ。ここで少し遅い昼食を取る。コンクリートの上に一列に並ぶように座り、お弁当を広げた。前方の小山の先には茨木の市街地が見え、さらにその先には生駒方面の山並みも霞んで見えた。

栗の実
大きな岩の下を流れる佐保川


13時30分、佐保川に沿って歩き、馬場へ入る。教円寺近くの共同墓地の一角に集められた石仏を見に行く。佐保クルス山から出土しここに移された約50体の石仏は鎌倉時代後期のものであるらしい。ひっそりと佇んでいる石仏に向かって静かに手を合わせその場を離れた。
 ふたたび南へと歩く。佐保川は、この付近は渓流となって樹木の間を流れている。橋を渡った所に農聖小西篤好(1767〜1837)の碑が建っていた。佐保村馬場の庄屋の家に生まれた篤好は、農業の実践的な研究成果をまとめた『農業余話』2巻を刊行した。
 バスが通る道に出て南下する。道路脇の畑の中に佐保栗栖山砦跡の案内板が見えた。山頂に築かれた連郭式の砦で、今も遺構が残っているという。
 川は福井集落へと続いていく。流れは清流のイメージとは異なり、コンクリートで囲まれた小さな運河のような姿である。川を渡ってしばらく歩くと福井城跡の案内板があった。今は田園以外に何も見えない。
 川は川床に草がうっそうと茂り、遠慮するかのように細い川筋になっている。山西橋を南に折れて耳原公園に入る。公園の池にはカルガモが羽を休めていた。

 公園を後にして、西国街道に架かる幣久良橋を渡る。橋から少し上流に勝尾寺川との合流点があり、茨木川となる。そのあたりを白井河原といい、戦国時代に合戦(白井河原の合戦)があった所らしい。
 佐保川は十数kmにわたってさまざまな表情を見せてくれた。最後は、水量が減り草の間をかすかに川の面影を見せながら合流点へと流れていた。
 16時30分、中河原バス停で今回の行程を終える。

佐保クルス山から出土した石仏