『まなびどり』編集ボランティアは、これまでに、茨木市内の街道や自然歩道、川などに沿って歩き、たくさんの自然や史跡を紹介してきました。
 今回からは、市内のある地域に出向き、その周辺の自然や史跡などを取材します。
耳原公園の芝桜
耳原公園の芝桜

 茨木市には数多くの古墳があります。安威川の東側にある市内最大の太田茶臼山古墳(継体天皇陵)や耳原古墳、福井の紫金山古墳など大小さまざまな古墳が点在しています。
 今回、『まなびどり』編集ボランティアは、耳原・安威・福井周辺の古墳を巡りました。約7Hの道のりを周りの風景を楽しみながらゆっくりと歩きました。

  4月15日晴天。阪急茨木市駅バスターミナルから午前9時30分発の阪急バスに乗車。耳原バス停で下車。耳原古墳へ向かう。
 耳原古墳(円墳)は、帝人大阪研究センターの中にある。正面受付で入場の手続きをして広い構内に入る。よく手入れされた花畑や整然とした並木を見ながら歩いていくと前方にこんもりとした林が見えてきた。木々に覆われたその中に横穴式石室の入口が見える。室内照明用のスイッチを押すと中の様子がはっきり見えた。入口は低いが奥に入ってしまうと広くて天井も高い。中には石棺が二つあった。奥にあるのが組み合わせ式で、羨道近くにある石棺が岩をくり抜いてできたものである。蓋には前後に突起がある。奥の石棺は大きくて蓋の左右にも突起があった。初めて見る古墳の内部は感動的だった。

 耳原古墳を後にして耳原方形墳(鼻摺古墳)に向かう。西国街道を西に500mほど進み、交差点を北へ曲がるとすぐに古墳がある。途中で阿為神社御旅所などを訪ねたので少し時間がかかった。

耳原古墳石室前
耳原方形墳(鼻摺古墳)

 この古墳は、この地方には珍しく方形墳であるとのこと。壕があったそうだが今は埋められており、こんもりと盛られた土に木々が覆い茂っている。ぐるりと一周してすぐ近くの耳原公園へ向かった。
 公園の池には鯉やカルガモが泳いでいた。公園の南にある幣久良山に登り、周辺の景色を眺めながら一息入れた。
  


 午前11時、耳原公園を出て北へ進む。5分ほど歩くと西安威一丁目の交差点に出る。角の児童公園で通りがかりの人に将軍山1号墳(将軍塚古墳)への道を尋ねると、親切にも案内してくれた。急な坂道のある住宅街を北へ歩くと小さな森があり石段が見えた。階段は急勾配で相当きつい。数えると66段あった。
 上り詰めた所が将軍山1号墳(将軍塚古墳:円墳)である。横穴式石室には鉄格子がはめられている。この古墳は、多武峰の談山神社に改葬する前の大織冠藤原鎌足の墳墓と伝えられている有名なものであるが定かではない。
 石段を下りて歩いていくと佐保川に出合う。東福井二丁目10の標識がある。しばらくして田園風景が目に入る。
 12時近くになったので昼食をとる。真龍寺近くの木陰でお弁当を広げた。昼食後、寺の辺りを散策する。真龍寺古墳群は真龍寺の東南方向にあったそうだが、確認できるのは追手門学院高校の1号墳だけであるという。

 休憩の後、府道余野茨木線の広い通りに出る。右に福井高校、左に福井小学校を見ながら南下すると福井の交差点に出た。西へ5分ほど行くと海北塚古墳(円墳)の標識があった。この古墳は横穴式石室をもっているが、終戦後間もなく天井石が石室内に崩れ落ちたため中に入れない。内部の調査では、勾玉や馬具類などかなりの埋葬品が出土したという。

海北塚古墳


 午後1時30分、通りに戻る。海北塚古墳から約10 分西へ歩き、北大阪警察病院の北側にある3 つの古墳を訪ねた。
 南塚古墳(前方後円墳)は、横穴式石室をもっていたとのことだが、見ると平面な石棺が二つ並んでいてこじんまりしていた。そこを離れてほどなく青松塚古墳(円墳)に着く。名前の由来は近くに青松寮という病舎があってそれにちなんで付けられたものだという。横穴式石室の入口は、現在は土に埋もれてしまって中に入れない。内部からは鏡や玉類、鉄製刀などが多数出土したという。
 紫金山古墳(前方後円墳)は、小山を登ったところにある。昭和22年、病院を建設中に石室の一部が露出したため調査したところ、鏡や鉄製品など数多くの埋葬品が出土したことから一躍有名になった。後円部の中央には竪穴式石室が築かれていたが、今は埋め戻されている。発見時、石室の中央に近い棺内には、勾玉やなつめ玉などの玉飾りがあった。また、埋葬された人は北を頭にして伸展葬されていたと推測されている。棺外には、鏡や鍬形石、車輪石、貝輪などが2群に分けられて南・北両端に置かれ、南側には特殊な短甲一領も置かれていたという。

 途中まで案内をいただいた病院の職員の方にお礼をいい、午後2時30分、病院を離れた。これらの古墳の見学は、病院の受付に申し出てから見学した。
 もと来た道を戻り、福井バス停で解散した。

紫金山古墳への山道