川端康成と茨木
〜川端康成文学館を訪ねて〜
川端康成は大阪市北区で生まれたと聞いています。 茨木市に移り住んだ経緯を教えてください。 両親が病気で相次ぎ他界したため、3歳で現在の茨木市宿久庄に住む祖父母に引き取られました。祖父母は、虚弱な康成を心配し大切に育てました。小学校に入学した年に祖母が他界し、目の不自由な祖父と二人きりの暮らしになりました。その3年後には、親戚に預けられていた姉も他界しました。 川端康成が住んでいた宿久庄の屋敷を復元した模型 康成は、この茨木の地でどのような生活をしていたのですか。 小学校の低学年のころは体が弱く、また、集団生活になじめずよく学校を休んだようです。しかし、高学年のころには学校生活に慣れ、体力もつき、6年生のころには一日も休むことはありませんでした。本好きで、学校の図書室の本をすべて読み尽くしていたようです。 明治45年(1912年)、康成は一番の成績で茨木中学校に合格します。絣の筒袖に縞の袴、脚絆を付けて下駄履きで、宿久庄から学校まで約6キロの道のりを通いました。小学校入学当時とは想像もつかない成長ぶりです。 文学への情熱はさらに大きくなり、中学2年生のころには、祖父に小説家を志していることを打ち明けています。祖父は「それもよかろう」と許したそうです。 そのころに書いた新体詩や作文の綴りは、父親の号にちなんで「谷堂集」と題されていました(父、栄吉は医業のかたわら、漢詩文や書画に親しみ、「谷堂」と名乗っていました)。写真でしか偲ぶことのできない亡き父のことを思ってのことだったのでしょう。 本は相変わらず盛んに読んでいたようで、与謝野晶子、島崎藤村、夏目漱石をはじめ、「源氏物語」や「枕草子」などの古典文学や外国文学にも数多く接していました。 大正3年(1914年)、康成が3年生の時、「共に生きたと思えるただ一人の肉親」であった祖父が亡くなります。『十六歳の日記』は、死に近い祖父の様子と康成の心の葛藤を記録した看取りの日記です。病人のさまざまな懇願に対する憤り、そこから逃げ出したい気持ち、祖父が亡くなってしまう恐怖などが鋭い感性で描かれています。 孤児になった康成は、母の実家(現在の大阪市東淀川区)に引き取られ、吹田−大阪間を汽車通学しましたが、半年ほどで中学校の寄宿舎に入ることになり、卒業までを過ごしました。 寄宿生となった康成は、ますます文学への想いを深めて習作に励みました。当時の文学少年が夢中になった雑誌に投稿したり、茨木にあった地方新聞に原稿を持ち込んだりする中で、4年生の日記には、「ノーベル賞を思わぬでもない」と、その自信のほどを綴っています。 大正6年(1917年)3月、康成は茨木中学校を卒業し、第一高等学校の受験準備のためにこの地を離れ上京しました。 川端康成文学館の正面にある文学碑 (随筆「茨木市で」より) |
康成が過ごした場所、訪れた場所を教えてください。 |
●川端康成文学館 〒567−0881 茨木市上中条2−11−25 開館時間 9:00〜17:00 休 館 日:月曜日午後、火曜日、祝日の翌日 年末年始(12月28日〜1月4日) 入 館 料:茨木市民は無料、市外の高校生以上は 200円(20人以上の団体は要予約) TEL 072−625−5978 FAX 072−622−9858 |