歴史、芸術、経済、語学などさまざまなジャンルにおいて、知っておきたい事柄や興味深い出来事を、
生涯学習センターきらめき講座の講師の方々に、わかりやすく解説していただきます。
今回は、現在開講中の「悠久のロマンを求めて−万葉の遣唐使−」の大原正義先生に、遣唐使の役割や
その意義などについて解説をお願いしました。
6年ほど前、中国の西安で唐時代の日本人留学生・井真成の墓誌が発見され、新聞やテレビで大きく取り上げられました。 そのことがきっかけで遣唐使についての関心も高まりました。ちなみに、井真成が乗船した第8次の遣唐使節の中には阿倍仲麻呂がいました。 航海中に命を落とすこともしばしばあったという遣唐使とは、どのような役目を担っていたのでしょう。 |
・遣唐使の目的と渡航経路を教えてください。 目的は派遣ごとに多少異なっているでしょうが(派遣回数は12回、16回、18回など諸説があります)、大きく3分類することができます。初期の西暦600年代の遣唐使派遣は、政治的要素が大きく絡んでいました。白村江の戦いに敗れた後、日本国は新羅と唐連合軍の侵略を恐れていました。従ってこの期の派遣は新興国の唐から何かを学ぶというより、東アジアの政争に巻き込まれまいとしての様子伺い、ご機嫌伺いの要素を多分に含んでいたと思われます。 しかし、大宝元年(701年)の大宝律令制定後は、律令国家としての自信を持ち始め、さらなる躍進のために唐文化を吸収しようと唐朝へ使節を派遣しました。この期の唐朝は、文化の華が咲き誇る最盛期であったため、日本国が学ぶべきことは数知れずあったようです。第8次遣唐使節に従って唐の都・長安に入京し、長期にわたり勉学に励んだのが、留学生の阿倍仲麻呂や吉備真備などです。彼らの目的は長安で学んだ知識を故国に持ち帰り、日本の国づくりのために尽力することにあり、大和朝廷の遣唐使派遣の目的はそこにあったといえます。 平安時代初期には遣唐使節が2回派遣されますが、衰退気味の唐には学ぶことが少なくなります。玄宗皇帝の治世後半部で、唐朝の屋台骨を揺るがす大事件「安禄山の乱」が勃発し、長安や洛陽はすっかり荒れ果ててしまいました。 都・長安の様子を杜甫は、「国破れて山河あり」と五言律詩『春望』でうたっています。唐のそのような状況の中、命をかけてまで唐に渡る意味はなくなりました。渡唐は経典の解釈などを必要とする最澄、空海、円仁などの学問僧で占められるようになりました。 渡航経路については、初期の西暦600年代では北九州から対馬を通る比較的安全な北路をとりました。しかし、西暦700年代は五島列島の福江島から東シナ海を一気に渡る南路を選んでいます。これによって遭難の回数も極度に増加しました。そのほか、南島路、渤海路というのもありました。遣唐使船が難波津から発船するのは4隻が普通でした。そのうちの1隻でも唐に着けばよいという考えが朝廷にはあったようです。 ちなみに、遣隋使の派遣は3回。佛教文化の輸入が中心であったと考えられます。 |
・どのような人々が遣唐使に選ばれたのですか。 |
・遣唐使や留学生にはどのような人物がいましたか。 阿倍仲麻呂の名前は、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌とともに有名ですが、正確には、彼は遣唐使節に随行した遣唐留学生だったと考えられます。父親は中務省という役所の次官クラスで、位階は正五位上の貴族でした。阿倍仲麻呂の人物像については確かなことはわかりませんが、唐での活躍ぶりから考えて相当な秀才であり努力家、しかも誠実な人柄ではなかったかと思われます。この時の彼の年齢については諸説がありましたが、6年ほど前に井真成なる人物の墓誌が中国西安の工事現場で偶然発見され、そこに記された文字から検討すると、阿倍仲麻呂が唐に渡った時の年齢が19歳だったと いうことになりました。 この井真成なる人物の墓誌の発見は、日本で大きな話題となり、連日のように新聞やテレビなどで大きく取り上げられました。公開された墓誌に記された171文字から、彼が生まれつき秀才で、国命で派遣されて勉学に励み宮廷で職についたが、急病になり36歳で死去。その死を惜しんだ玄宗皇帝が高位の役職を贈ったということが読み取れました。井真成という名は中国名です。日本名や出身などについてはいろいろと論議され、現在では藤井寺市付近ではないかということで一致しているようです。日本名については、「井上真成」だと言われる学者や「葛井真成」だと言われる学者もおられて、一致した見解はまだのようです。 しかし、たった171文字から推定できる範囲は限られているように思います。 |
・遣唐使が貢献したことは何でしょう
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