茨木市は昨年、市制60周年を迎えました。茨木は明治31年(1898年)に茨木村から 茨木町になり、昭和23年(1948年)に茨木市へと発展していきました。 その頃の茨木の村や町はどのような様子だったのでしょう。 また、人々の生活はどのようなものだったのでしょう。 茨木市立文化財資料館を訪ねてお話を伺いました。 |
・茨木村から茨木町、そして茨木市へと移り変わった地域の様子を教えてください。 茨木がまだ村だった頃、その範囲は、東西は茨木神社辺りから東本願寺茨木別院辺り、南北は茨木川に沿って上泉町北側辺りから茨木高等学校辺りの地域でした。明治時代の初め以来、茨木村は三島地方の行政の中心地であり、商業や教育の中心地でもありました。明治9年(1876年)に官営鉄道が開通し茨木駅が設置され、これが後の茨木の発展の基礎となりました。現JR茨木駅を中心として宅地化が進み、それまで自然増程度であった人口は、増加率が大きくなっていきました。 茨木村は明治31年(1898年)に茨木町へと変わり、やがて大正時代に入っていきます。川端康成の作品には、大正時代の茨木の風景や店舗などが描かれているものがあります。 昭和23年(1948年)1月1日、茨木町・春日村・三島村・玉櫛村の1町3村が合併して茨木市が誕生。市民生活の安全と向上のため、警察署・消防署・市庁舎・図書館・市民病院・電報電話局などが設けられました。昭和30年代から40年代(1955年〜1974年)には、大きな企業が茨木市に進出してきました。昭和38年(1963年)には名神高速道路が、次の年には大阪中央環状線が通り、昭和45年(1970年)には隣の吹田市で日本万国博覧会が開催され、茨木市内の商工業はますます発展していきました。 |
・交通機関や学校などはどうでしたか。 |
元茨木川堤(昭和43年頃) |
茨木にはどのような産業があったのですか。 明治15年(1882年)、各村々から政府に出された物産取調表によると、水尾村では米・麦・なたね・えんどうなどの農産物やむしろ・縄などが作られ、ほかの地域では、けし・うど・温室による園芸作物・キャベツなどが作られました。手工業製品では寒天・木綿・酒・鋳物などが作られ、中でも寒天は有名でした。明治12年(1879年)には近代的な設備をもった桑原紡績所ができました。水力を動力源とした小規模なものでしたが、当時としてはすぐれた技術を持った洋式機械工場で、多くの人が技術の習得に訪れたそうです。また、印刷・友禅・織物などの工場もほかの地域から進出してきて、工業は昭和10年(1935年)の産業道路開通と前後して盛んになっていきました。
人々の暮らしはどのようなものだったのですか。 明治15年(1882年)、各村々から政府に出された物産取調表によると、水尾村では米・麦・なたね・えんどうなどの農産物やむしろ・縄などが作られ、ほかの地域では、けし・うど・温室による園芸作物・キャベツなどが作られました。手工業製品では寒天・木綿・酒・鋳物などが作られ、中でも寒天は有名でした。明治12年(1879年)には近代的な設備をもった桑原紡績所ができました。水力を動力源とした小規模なものでしたが、当時としてはすぐれた技術を持った洋式機械工場で、多くの人が技術の習得に訪れたそうです。また、印刷・友禅・織物などの工場もほかの地域から進出してきて、工業は昭和10年(1935年)の産業道路開通と前後して盛んになっていきました。 |
茨木ではたびたび水害があったようですね。 生活道具について教えてください。 水道がひかれる前には、台所などで必要な水は井戸や川から汲んできて水がめに溜めて使っていました。ガスや電気がない頃は、かまどでまきを燃やしてご飯を炊き、わらで作ったふごに入れて保温していました。食事は箱膳を使っていました。箱膳の台の下には引き出しがあり、その中に飯椀・汁椀・小皿・湯飲み・はしなどを入れて、しまっておきました。 暑さや寒さを和らげる方法として、夏にはうちわであおぎ涼をとり、すだれで直射日光を防ぎました。家のひさしの日陰に床机を置き、夕方、表に出て夕涼みなどをし、大人に混じって子どもたちも将棋などの遊びをしました。冬には火鉢に炭や豆炭を入れて暖をとりました。また、掘りごたつなどもありました。寝るときには布団の中に行火や湯たんぽを入れて暖かくして眠りました。
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