茨木市文化財愛護会は36年の長い歴史を持っています。その活動は、茨木市の文化財の保護や調査研究、さらに、市民への文化財保護の啓発にまで及んでいます。 
そこで、これまでの活動や調査中のエピソード、歴史的観点から見た茨木市の魅力などについて、生涯学習センターきらめきの講師でもある会長の小林章先生と副会長の山崎茂和先生に話を伺いました。

茨木市文化財愛護会とはどのような会ですか。

  茨木市文化財愛護会は、茨木市の歴史に興味を持つ人や豊富な知識を持つ人たちが集まって昭和49年(1974年)に発足しました(前身の茨木市文化財研究調査会は昭和35年[1960年]に発足)。昭和45年(1970年)、大阪での万国博覧会開催の頃から茨木の地域にも都市化が進んできました。
そして、新しく住み始めた市民にゆとりができて、自分たちが住んでいるまちが、どのような歴史を持つ地域なのか知りたいと考えられるようにもなりました。このような時代に、この会が誕生したわけです。主な目的は、茨木市域にある文化財を大切に守り伝えるための調査と研究、その成果を市民に提供することや市民への文化財保護の啓発などです。
 現在、メンバーは約130人います。その中には、専門的な知識を持った方々や歴史が好きで入会した方々もおられます。
 当会は、毎年、史跡の見学会や講演会、発掘調査見学会、郷土民俗資料展などを開催しています。今年もすでに講演会や見学会を行いました。また、出版物の編纂や会報の発行なども行っています。
メンバーにはどのような方がいらっしゃったのですか。 また、何かエピソードはありますか。

  発足当時から、学校の先生や僧侶、神主をはじめ、多彩な顔ぶれが集まっていました。キリシタン墓碑を発見された藤波大超先生もこのメンバーのひとりでした。
 藤波先生から聞いた、キリシタン墓碑発見時のエピソードは感動的です。先生が旧制茨木中学校の生徒だった頃、恩師から、「君の家の近くの千提寺付近は、個人の墓が多く、昔は高山右近の領地だったので、おそらく隠れキリシタンがいただろう」と聞かされた藤波先生は、千提寺付近の民家を一軒一軒訪ね歩かれました。しかし、どこのお宅も口を閉ざし何も聞くことができません。当時はまだ、口外すると大変なことになるのではないかと思われていたようです。それでも熱心に通ってこられる藤波先生に、ついに一軒の家の当主が心を動かし、「村の墓を見に行こう」と誘い出しました。そこで見せられた石には、二支十字章と「上野マリヤ 慶長八年」の文字が刻まれていました。そして、当主と家の跡継ぎ以外は絶対に開けてはならない「あけずの櫃」を見せてくれたのでした。そこからは、教科書にも載っているザビエル画像などが出てきました。この話は大正9年(1920年)のことで、もちろん、この会が発足するずっと前のことです。
 ほかにも、当会には、すばらしい活動をされた先輩方がたくさんおられます。私たち現メンバーは、諸先輩方の精神を支えとして、精力的に活動を続けています。 
茨木市は歴史的に見てどのようなまちだとお考えですか。

 茨木市は地理的条件の良さから、古代から多くの人が住んでいました。このため、古墳は前・中・後期のものがあり、東奈良遺跡などに代表される遺跡もたくさんあります。平安時代に編纂された『延喜式』には、式内社として市内の神社が数多く掲載されています。また、白井河原の合戦場や隠れキリシタンの里、郡山宿本陣(椿の本陣)があります。歴史上の人物との関わりもたくさんあります。例えば、藤原鎌足や古田織部、浅野内匠頭などが挙げられます。そのほか、織田信長が娘婿の中川清秀の茨木城に来たのではないか、また、豊臣秀吉が現茨木神社境内の名水、「黒井」の水を大坂城まで運ばせて茶会を開いたなどというエピソードもあります。
 茨木市域の歴史を学んでいくと、日本の歴史の流れを知ることもできます。そして、その時代の人の立場にたって当時のことを考えることで、さらに歴史の違った側面が見えてくるでしょう。