私たち『まなびどり』編集ボランティアは、これまでに茨木市内の街道
や自然歩道、河川など、たくさんの自然や史跡を紹介してきました。
今回は、平成16年(2004年)夏に訪れた鉢伏自然歩道を、心地よい風が吹く秋晴れの日に、再び歩いてみることにしました。
  鉢伏自然歩道は、川端康成旧跡がある宿久庄一丁目から粟生岩阪集落を通り、佐保免山までの全長約5.7キロの手軽なコースです。途中には、標高296メートルの鉢伏山があります。今回は、免山バス停からスタートし、川端康成旧跡を訪れた後、川端家の菩提塔にも立ち寄って、福井のバス停まで歩きました。距離は約7キロ。秋を満喫したハイキングでした。

  10月5日火曜日。快晴の秋空の下、午前9時43分、阪急茨木市駅発忍頂寺行きの阪急バスに乗車。午前10時25分、免山バス停で下車。佐保川のせせらぎを後にして歩き始める。大阪府水道部ポンプ場横の階段を上ると、彼岸花とコスモスが目の前に広がっていた。梅原集落が見えてきた。柿の実が色づき始め、山里には秋の雰囲気が漂っている。しばらくすると集落の家が遠のき、道は山へと入っていく。檜などの大木がうっそうと茂り、太陽の光は樹木の間からわずかに漏れる程度だ。道を進むと小さな池があった。水面は半分藻で覆われている。前方を見ると道が20メートルほどぬかるんでいた。泥水からわずかに出た木材を足場にして渡る。その先の道は多少の起伏はあるが、おおむねなだらかだ。周りの景色は、竹林、灌木、大木と変わっていく。
 鉢伏山への道を案内する標識を通り過ぎしばらく歩くと、鉢伏山への登山口が見えてきた。登山道を息をはずませながら上へと進んでいく。ふと木立に目を向けると、紫に色づいたアケビがぶら下がっていた。
 山頂に到着。標高296メートル。山頂からの景色は樹木が成長して少し見通しが悪い。しかし、空気は昨日降った雨のせいか澄んでいるように感じられる。日差しはまだまだ強い。
 ここで40分ほど休憩をとることにして、お弁当を広げた。

  午後零時30分、滑らないように山道を下り、元の道に出る。畑が見えてきた。栗の木が地面のあちこちにイガを落としている。ここにも秋を感じる。 
 粟生岩阪集落の家々が見えてきた。左側に小さな社があり、少し下がると鳥居があった。鳥居の額には「稲荷神社」と記されていた。階段を上がってみる。奥の方には、左右に石灯籠を配した社がある。境内はけっこう広い。そこから少し下って右側に曲がると、公園の奥に「藤代神社」と記された鳥居と社が見えた。毎年10月には五穀豊穣を祈願する祭りがあるそうだ。
 集落を抜けて彩都への道路を横切り、標識に従って再び山道に入る。木立の間から彩都の建物が見えた。右側はゴルフ場だ。関西大倉学園の学舎が見えてきた。そこを左に見ながら下っていく。
 宿久庄に入る。黄金色に輝く稲穂と所々に群れて咲くコスモスと彼岸花の色彩が見事で、ほんとうに美しい眺めだ。しばらく道なりに進むと、程なく川端康成旧跡が見えてくる。


 川端康成は、生まれは大阪市だが、父母の死後3歳から豊川(現宿久庄)で祖父母と暮らし始めた。康成が7歳の時祖母が亡くなり、その後は、目の不自由な祖父と二人だけの生活になった。この家での生活は、祖父が亡くなる15歳まで続いた。康成が住んでいた家は、その後、建て替えられて当時の面影は残っていないが、庭には康成が昼寝をした石があり、生け垣にも当時の姿が残っている。
 屋敷から西へしばらく行くと右手に八阪神社がある。この神社は、小学生だった康成ら村の学童たちが登校する時に集まった場所である。
 神社の手前の上り坂を進み、次の を左にまっすぐ進むと道が二股に分かれている。ここを左側に行き、緩やかな階段を上がると川端家の墓地に着く。康成はこの墓地の中央正面に川端家の菩提塔を建立した。昭和42年(1967年)のことだという。
 再び八阪神社に引き返し、北大阪けいさつ病院の前を通って福井バス停に到着。時刻は午後3時20分。
 今回は、距離も短く比較的なだらかな山道だったので、山歩きの楽しさと周りの自然をゆっくりと味わうことができた。