市民インタビュー
第45回
書芸アーティスト
てっ
せん
さん
 20歳の頃から書道を学んでいた佐々木さんは、数年後、病気療養中に俳句に出合い、その世界に没頭します。
 その後、篆刻(てんこく)や水墨画にも出合い、やがてそれらが融合した素晴らしい作品が次々と創り出されていきます。
 書、俳句、篆刻、画の4つを融合した作品には佐々木さんのどのような思いが込められているのでしょうか。
先生は書、俳句、篆刻、画を融合した作品を創っておられますが、最初に興味を持たれた分野は何ですか。
  私が20歳を過ぎた頃、ある友人から手紙をもらいましてね。それが素晴らしい毛筆の手紙だったんですよ。この字に負けないくらいの字を書いてみたいという思いから独学で書道を始めました。
 次に始めたのが俳句です。28歳で肺結核になり、2年間の療養生活を送ったのですが、そこで出会った患者仲間が俳句をしていたのです。その人の指導で24時間朝から晩まで俳句に明け暮れました。よくダメ出しをされましたが勉強しましたよ。しばらくして俳句雑誌『馬酔木(あせび)』に投稿し始め、1年くらい過ぎた頃から採用されるようになりました。
 退院後、仕事の関係で福岡から関西へと移り住み、35、6歳になったとき、書と俳句のほかに何かやってみたいという思いにかられ、篆刻(石や木などの印材で書画に使う印章をつくること)をすることにしました。しかし独学では上達は難しく、先生について勉強することにしました。40歳を過ぎて少し腕が上がった頃、落款(らっかん)を創ってほしいと依頼をしてきた人が、たまたま水墨画の先生だったので、画の指導をお願いすることにしました。

それらを融合した作品づくりはいつ頃から始められたのですか。そのきっかけは何ですか。
 自分の個展を開くようになってからです。展覧会は普通、書は書だけの、篆刻は篆刻だけの展覧会というふうに別々に開かれます。50歳の頃から個展をするようになってしばらくは私も別々に開いていたのですが、何か堅苦しい感じがするのです。もっと楽しくなるような作品を展示したいと思うようになり、10回目くらいからそれらを融合した作品を創り展示するようになりました。

先生の作品づくりの根底にあるものは何ですか。
  私は、幕末から明治、大正を生きた文人画家、富岡鉄斎のようになりたいとずっと思ってきました。鉄斎の作品は素晴らしい。若い頃、書店で鉄斎の書簡集を見つけたときはうれしかった。しかし高額だったのですぐに買うことができず、結局1年かかってやっと手に入れることができました。それほど素晴らしいものなんです。文人とは書ができて絵が描けて、篆刻ができて詩が書ける。作品の字や詩が読めなくても感動を与えることができる。私の作品づくりの根底にはいつもそうした思いがあります。

最近、韓国のソウルに招待され、地元の方と二人展をされましたね。  
 展覧会の開催時、主催者の方に肩書きがない私をなぜ招待してくださったのかと聞くと、作品第一で選んだとのこと。大変うれしく思いました。私は肩書きはあまり好きではありません。肩書きを目標に努力することはいいことですが、それは山のふもとに着いただけ。まだ頂上にたどり着いていないのですよ。そこから努力して自分の力で登ることが大事ですね。展覧会はおかげさまで日本と同じように大盛況で、たくさんの人に喜んでいただきました。

とかく、職場などの人間関係はわずらわしいと思われがちですが、人との関わりを有意義なものにするには、どのような心がけを持てばいいのでしょう。
 
人は皆、さまざまなことを抱えながら、精一杯生きているということを思えば、人との接し方も変わってきます。自分自身も、いろいろな人から受け入れてもらっているということを覚えておきましょう。
 会社で苦手な上司がいたとしても、その行動をよく見てみると、その上司のおかげで助かっているという部分が少なからずあるものです。少し違う方向から人を見たり考えたりしてみると、心が広くなり、いろいろな人と話すことが楽しくなっていきます。

最近は絵手紙などを趣味にする人が増えています。何かアドバイスを。  
  構図ですね。特に余白が大事です。どうしたら余白が生かされるか。それと文字のおもしろさ。形だけではなく、にじみやかすれ。これは計算してできるものではありません。私は書くときには全体を想像しますが、あとはおまかせです。出来上がってみると偶然のおもしろさが現われていることがあります。しかしそれは努力があってこその偶然です。それともう一つ、良い作品をいっぱい見ることも大切なことだと思いますよ。

2011.8「茨木市生涯学習だより」